去る10月2日、義母がこの世を去りました。このご時世ならまだ「若い」と嘆かれる歳。癌でした。
彼女がどんなふうに生きて、どんなふうに旅立ったか、私の知る限りのことをここに書き留めておこうと思います。
これは彼女の物語であり、私たち家族、そして最期を支援した在宅医療チームへの感謝でもあります。この話が、これからの人生に迷う誰かの道標になるかもしれないから、母には許可を得て、長いですが書き記しておきます。
彼女の人生|「自分らしく生きた」オカン
彼女の故郷は隠岐の島。役場勤めの男性から熱烈なプロポーズを受け——(港から海に飛び込むくらいの勢いだったそうです)郡部に移住し、看護師として働きながら、私の旦那さんになる人を産みました。
料理と編み物が得意
山菜採りときのこ狩りが好き
お酒とたばこを愛し、何より息子を愛し、お金の勘定と片付けが苦手
振り返れば、数えきれない苦労があったはずなのに、彼女はいつも明るく、あっけらかんとしていて、不屈のひとでした。
故あって疎遠になっていた時期もありましたが、独りぼっちながらも友人に囲まれ、病気になってからも、近隣の方々に助けていただいていたようです。
在宅医療のはじまり|家に帰るという選択肢
私が担当になったのは、主治医の先生がカルテを眺めながら、家族の連絡欄に私の名前を見つけてくださったことが始まりでした。
余命1年。在宅医がつく意味を、彼女は充分に分かっていました。病棟からの帰宅を、心待ちにしていたようでした。
彼女の終わりを考えると涙が出そうになることもありましたが、その時の母は、病気に負けず、たくましく、生きようとしていた。
最終回が分かっているのに、それでも今を必死に生きる姿が、溌剌としていました。
在宅医療で過ごす日々|家族との時間
息子と母は、絆を取り戻すように、時に励まし合い、時に罵り合いながら、独居支援の日々が続きました。
孫とふきのとう狩り、お花見に出かけた
トミカで一緒に遊んだ
野草好きな私のために、すみれを探してくれた
優しく、優秀なケアマネージャー、訪問看護師、薬剤師、外来の皆さんに支えられ、痛みに苛まれながらも、彼女は「生きる」ことに一心でした。
彼女の根城は、もと小料理屋。「自分が切り盛りしていた場所で最期を迎えたい」
—— 彼女は必死で考えていたようでした。
そして、それを誰ひとり否定しなかった。それが、何よりの救いでした。
最期の10日間|在宅看取りの決断
彼女は、自由が失われていく恐怖と戦っていました。弱っていく体をひきずりながら——
痛み、息苦しさ、そして「生きる自由が奪われていく」辛さ。それでも彼女は、最期まで自由であろうとしました。
亡くなる10日前。「孫に毎日ローソン食わすわけにいかん」と、最期の時間を我が家で過ごすことを、皆で話し合い、彼女も理解してくれました。
訪問看護師さん、訪問入浴さんが親身になってくれました。痛みの裏にある感情を、「腹が立つ」と教えてくれました。
私は、医師でもなく、嫁でもなく、一人の人間として、心からこう言いました。
「おかん、今まで通り自由でいいよ。やろうと思えば何でもできるよ。 車いすにだって乗れるかもよ。ハワイでも行こうか?」
「えみちゃんって、すごいね。」
その夜は、
🥩 孫とすき焼き
🍚 卵かけごはん
🥣 私の作った味噌汁
を、湯呑で味見してくれました。
旅立ち|在宅医療で迎えた最期
大好きなコスモスが咲いて、金木犀が香る季節。爽やかに晴れたある朝、部屋が静まり返っていることに気づきました。母は、旅立っていました。
多くの人が訪れ、別れを惜しんでくれました。今はまるで、彼女がいなかったかのように日常が戻っているけれど、母は、みんなの心に、鮮やかな思い出を残しました。
「正しいことは強いことだよ」医者になったことを悩んでいた私の背中を押してくれた母。
もう、苦しくないね。そう心の中で呼びかけます。
これが、私の義母の物語。
私の宝物の思い出です。

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