宮沢賢治の童話「猫の事務所」を知っていますか。
主人公のかま猫は、寒がりなのでかまどの中で眠る癖があり、
「薄汚い」とほかの猫から疎んじられ、排除されます。
突然ですが、こんな想像してみてもらっていいですか。
あなたは一人で呑気に暮らしていて、そこは若い時からずうっと住み慣れた家だとしましょう。
幾瀬も過ぎて、すっかり歳を取って、体の動かしづらいところが出てきました。
疲れて頭がぼうっとすることもあるけれど、なんだ今も変わらずあなたは元気です。
するとある日突然、誰かが戸を叩いて、「大丈夫ですか、お困りごとはないですか」と聞くではないですか。
困ってはいるけど何に困っているかははっきりしないので、
「生きてれば誰だって困りごとくらいあるよ」程度のことしか言えませんでした。
するとまた別の日、誰かがやって来て、「さてどうだ、施設に入ってみないか」と言うのです。
「ちょっとの間」と言われるけれど、どのくらいかしら。
何だか家には二度と戻れない気がしました。
なんでか下手すると、「入院してください」と言われるのです。
特に心も体も困ってない。治したいものなんてないのに、さてどうして病院なんかに。
みなさんじつに不思議です。
元気なのに突然「入院してください」って言われたことありますか。
そんなこときっとないでしょう。
かま猫はどうでしょう。彼だってありのままの自分でよかったはずです。
自分たちとまわりに違いがあって、差があって、一緒には生きていけないと言われたら、 どんなに悲しいことでしょう。 入院で治療できる認知症症状は、病型が限られています。 自宅での暮らしが破綻していると判断するのであれば、 彼らに必要なのは生活の場です。 病院に住むということがどんなことなのか、試しにあなたが半年くらい、 入院できたらいいのですが。 そんな失礼なことを言ってしまうくらい、私はあなたに分かってほしいのです。 認知症患者さんと私たちの間に、境界なんかあってほしくないからです。 ガラスの向こうの生き物を見るような目で、彼らを見てほしくないのです。 彼らは「助けてあげないといけない」存在ではないはずです。 あるがまま、そこに存在していることに、私たちと何の違いもない。 保育園で進級する時、子供が戸惑い疲労するように、 彼らが家を離れるとき、大きな緊張と苦痛、負担を強いることになりかねない。 大切な思い出や、自らの身を立てる、自立する力を失いつつある彼らにとって、 家は残された最後の砦と映るのではないでしょうか。 そこを旅立って、新しい居場所に適応する価値があればいいけれど。 家よりずうっと、いいところならいいけれど。 彼らに必要なのは、専門的な知識に裏付けされた支援とケアです。 「思いやり」とか「人道」とか、そんな上から降ってきて押し付けられるものではなくて。 同じ志で地域で活動してくれる方が一人でも増えてほしい。 行動の春にしたいものです。
Comentarios