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自宅でつづける 安らかな毎日 

-人生と いのちの話をしよう-


高齢者が医師や介護者と温かい家族とともに穏やかに暮らしている

 – 自宅で暮らし続けることは、贅沢ではなく私たちの権利–


みなさんお久しぶりです、よだか診療所です。今日は人生の話をします。

人生は、英語で言うと「LIFE」です。命もLIFE,生活もLIFEです。

私はこのことに、非常に奥深さを感じています。


最近、地域での訪問医療活動を通じて、独居で最期を迎えることが未だに「異例」だと感じる場面が多くあります。世帯は「高齢化」「孤立化」「貧困化」が進み、介護の力が足りない家庭が増え続けています。

安心して自宅で過ごすためのセーフティネットに隙間があり、ご家族や介護職の方々が、"家で暮らすのが難しい"と感じられるケースが増えているように思います。

それでも、多くの人が「ずっと家で暮らしたい」と願っています。自宅で過ごし、自分の居場所で最期を迎えること。それは本当に贅沢なことなのでしょうか?決してそうではないはずです。


思い出が詰まった自宅と無機質で機能的な病院の対極的な様子

–なぜ「自宅で暮らす」が難しいのか?–


現実問題として、特に高齢者が地域で増えていく中で、病院や施設への入所が「安心できる選択肢」として勧められることが多くなってきています。家族や介護者が不安を感じるからという理由で、入院や入所が選択されることが多いのです。

確かに病院や施設は、集中的かつ専門的な治療が臓器ごとに叶い、安全面での備えが充実しており、緊急時の対応もしやすい、という利点があります。

しかし、自宅で暮らし続けたいという思いを持つ要介護状態(フレイルという単語もかなり浸透して来ました)方々にとって、これは必ずしも最良の選択肢とは限りません。


人はみな、"健康でいたい""自立していたい"と願いものです。老いや病はその障壁となり、長らく医学はそれを解決するための手立てを、より多岐に、より高度に人類に提供してきました。

それでもそれらを完全に克服することはできず、"健康""自立"を失ってしまう時、どのような疾病の方であっても、そのつらさを和らげ、乗り越えていくための緩和ケアが必要です。

緩和ケアの概念の中に、私は予防医学やウェルフェアの意識も盛り込むべきと考えます。

それはつまり、人生、つまり自分たちが願うような生活を続けること、基盤となる衣食住を成立させていくために、その人なりに残された健康や身体機能を維持したり回復したりすることも、緩和ケアだと考えます。

住みたい居場所を守り続けること、それ自体も「社会的苦痛」という名の生きる辛さを和らげるための手立てでもあるのです。

守り続けるのは、「生命」そのものではありません。「暮らし」です。辛くないだけでなく、生きがいや人とのつながり、

愉しめる食事、心地よいリネン、行き届いた清潔。今までそうであったような、その人らしさそのもの、を守り続けなければなりません。


家族や介護者に囲まれて、自分の将来について話し合っている。DNARや生活の質に関する大切な話し合いをしている様子。

–個人のQOLと周囲の安心について考える–


ACPは、その方が自分の人生をどう生きたいかという強い意志の表れです。特に、高齢の方や重篤な病を患っている方々は、自分らしい生活を守りつつ、無理な延命治療ではなく、自然な形での最期を希望されることが多いです。

ですが、現実には突然の病状悪化や急変により、意図せず救急車を呼ばれ、望まない治療や長きにわたる入院生活を余儀なくされるケースが後を絶ちません。

DNAR(Do Not Attempt Resuscitation: 心肺停止時に蘇生措置を行わないこと)はACP(Advance Care Planning 事前ケア計画)における話し合いの中で常に議題に上がりますが、残された予後を精いっぱい楽しく全うしようとされている人々の間で、この概念から逸脱し得る方を探すことの方が、

私たちは難しいと考えます。

多くの場合、自宅を離れることとなる理由の一つは、「万が一のために」といった家族や周囲の不安からです。「何かあったときのために」と思うことは自然な感情であり、家族が心配するのは当然のことです。

しかし、DNARに該当するような生活を送っておられる方々にとって、自宅は最後に許された自由な居場所であり、かけがえのないLIFEの実践の場です。

誰かの「万が一」に対する対応として、自宅ではなく、病院や施設を選択されることの悲しみや切なさが地域にあふれています。

これは我々医療介護従事者の問題であると言えます。「どのように解決するか」「どのように支えるのか」「なぜ自宅にこだわるのか」そのような意見交換が未熟なまま結論を急ぎ、望まない救急要請も多いことかと思います。


家族が医師とともに治療計画について話し合っている様子。

–入院は「目的」と「目標」「期間」を明確にすることが大切–


在宅チームが自宅に定期的に訪問している場合でも、急変時に救急車が呼ばれ、病院に搬送されてしまうことがあります。家族の意向やチーム内でなされてきた意見交換の幅や質に左右されてしまうことがあるためです。

私たちは、急性期病院への搬送に当たっては、希望に沿った自宅復帰の確率が少しでも向上するよう、可能な限り短期間の入院で、専門医にどのような治療を依頼するか、どのような状況になれば帰宅できるのか、を

ご家庭や紹介先と速やかに情報共有したうえでの対応を心がけています。

重要なのは、本人の意思を事前にしっかりと確認し、その意思を家族や医療従事者、地域全体で共有することです。もちろん最後が近づいた方々にとっては、

自宅での生活を全うすることが大きなゴールですから(最後が近い、ということをみなさんにまず知ってもらうことからですが)、先述の

DNARの概念に則り、最大限の症状緩和を展開し、家族の理解を求めつつ、様々な医学的問題を在宅ベースで解決することを介護職の方にも周知し、1日1日のLIFEを過ごして頂くことになります。


在宅医療を支える医療チームが集まり、協力して患者支援の戦略を立てている様子。

–地域の医療者の力が試されている–


家族や周囲の人々が「最期の瞬間をどう迎えるか」ということを正しく理解し、安心して見守ることができるような情報提供やサポート体制の構築は、我々に課せられた義務です。これから先も「高齢化」「孤立化」「貧困化」は止まらないことでしょう。

我々が垣根や職種を超えてどのように理解し合い、連携し、医療介護サービスを通じて、家での生活を支える環境づくりを進めることができるのか、それが試されています。

患者さんの生活を守るためにどのような選択肢、解決策があるのか?我々は十分に学習し、意見交換し合うべきです。


人生は、まさに毎日の積み重ねです。「どう過ごしていけば良いか?」を考えること、それが私たちの生活そのものです。今日の選択が、明日の未来を作ります。

そして、最終的に自分がどのように生きていくか、どう最期を迎えるかを思い描くことは、人生全体をより豊かにするのではないでしょうか。

自分の最大限のポテンシャルをどう引き出せるのか。終わりを見据えた時、私たちは初めて本当にどう生きるかが見えてくるのだと思います。

誰もが、自分の家で、慣れ親しんだ環境で、大切な人々に囲まれて過ごすことを望んでいるはずです。そして、最期の瞬間もまた、その延長線上にあるべきだと私は思います。

「自宅で迎える最期」は、決して贅沢ではありません。それは、私たちが自分らしく生きるための自然な選択であり、全ての人が持つべき権利です。この願いを叶えるために、私たち医療従事者はこれからも寄り添い、支え続けます。

我々は最後を見据えて今の大切さをみなさんに訴えかけますが、それは決して「老い先の短さ」を説いているわけではありません。残された人生、生活、命を、どのように悔いなく送ったり、持ち続けてもらうかを真剣に考えるための投げかけです。


私たちは、誰もが自宅で安心して過ごし、笑顔で自分らしく生き続けられる未来を信じています。

そして、その未来を実現するために、これからも多くの仲間と共に、地域医療の力を育んでいきたいと考えています。










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